Ruiico (ruiico) wrote,
Ruiico
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奇跡はいつも!

 今日は10時から銀座倉庫から荷物の持ち出し。
雨だけど仕方がないでしょ。それでビニール袋をたくさん用意して山手線に!結構本って重いし、あるのでひとつずつくるんで荷台車に乗せて、1階まで持ち出したら、晴れてました!
タクシーさんもいい人だったので運べました。でも、まだ半分ありましたがね。

 ウルトラ・プチ・スタジオなどに分散して運びました。
さて、昨日の『レオナルド・藤田』の続きですが、もっと書き込んでたのに消えてしまいました。
それで、もう1度続きです。

1930年、44歳。パリに戻る。恐慌の影響で美術市場低迷。
1931年、ユキと別れ、マドレーヌ・クーとブラジルに発つ。
1932年、アリゼンチン、ボルビア、ペルー、キューバを経てメキシコに滞在して壁画などを描く。アメリカ経由で日本に帰る。
1936年、マドレーヌ急死。堀内君代と結婚。随筆集『腕1本』出版。
1937年、秋田の平野政吉美術館で『秋田の行事』大壁画を描く。外務省の依頼で映画『現代日本』を監督するも批判される。
1938年、君代と沖縄旅行。海軍省嘱託として漢口攻略戦に従軍。
1939年、君代とともに3回目の渡仏。ドイツ軍のポーランド侵略で第2次世界大戦勃発。
1940年、パリ陥落直前に脱出。おかっぱ頭を丸刈りにする。
1941年、父死去。
1945年、59歳。最後の戦争画を描く。8月15日を藤野で迎える。
GHQ嘱託として、戦争画収集に協力。『美術家の節操』論争、朝日新聞。
1946年、 GHQは軍国主義者の公職追放を指令。藤田を筆頭にした画家の戦争犯罪者リストを作成。
1947年、前年、申請したフランス渡航のビザがなぜか下りなかった。情報が漏れ、新聞・雑誌に『日本脱出失敗』を書かれる。
1949年、羽田からアメリカにたつ。
「日本画壇は早く世界的標準になってください。」と見送りの人に言い残す。ニューヨークの個展でベンシャーンと国吉に抗議を受ける。63歳。
1950年、パリに到着。
1951年、フランス国立美術館に絵を寄贈。日本出国前に『私の部屋』を寄贈を申し出たが、断られていた。スペインで個展。
1953年、モンパルナスの女王キキの葬儀に藤田とエコール・ド・パリの仲間は2人しか参列せず。
 このころ、好んで子供の絵を描く。
1955年、フランス国籍をとり日本国籍を抹消。
1957年、レジオン・ドヌール勲章受賞。
1959年、ランスの大聖堂でカトリック洗礼を受ける。レオナルド・フジタとなる。73歳。
1961年、パリ郊外に隠棲。絵だけ描き近所の子供たちと冗談を楽しむ。
1964年、最後の個展。
1965年、「一生の終止符としてランスの聖堂に『平和の聖母』礼拝堂の建設を企てる
1966年、礼拝堂のフレスコが完成。癌でパリの病院に入院。以降、病院を転々として入退院を繰り返す。
1968年、1月29日。チューリッヒ州立病院で死去。81歳。
日本政府は勲1等瑞宝章を贈ることを決定する。
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