ガラス美術館の真向かえは、俵石という名のようだ。
高校の時の夏休み2年間は、いつも、私の家では、「俵石閣」と言う旅館に家族中でひと
父は、N弁護士と異常とも言えるほど仲良しで、私のコテージもNさんが分譲販売を手伝
仕事でも、父の会社の顧問弁護士だったが、それだけでなく、テニス、ゴルフ、ギャンブ
Nさんは背が高く外人のようで、長崎県生まれなので、どこかで白人の血が流れたのであ
洒落もので、当日、銀座にあったケテルスと言うドイツ菓子のホールのケーキをクリスマ
Nさんは婿養子で自分の家には居場所がなかったのかもしれないが、私の母親もNさんの
Nさんはゴルフのキャディさんも、売店の売り子さんも、「お嬢さん。お嬢さん。」と、言
愛人と一緒になりたいので別れたいと言ったときに、奥さんの父親は子供ができるから、我
何事も頑張る奥さんは、プロのピアニストにさせるために、常に狂気だった。
箱根の俵石閣にいる間も、娘が西瓜の汁で洋服を汚したと言っては、ひっぱたき、私達の
奥さんの熱意は裏切られることなく、私達素人でもわかる有名音楽家に土地つきピアノつ
Nさんは、中村紘子のまねをしたのだとおもうけれど、銀座に画廊まで開いたが、50歳
父は画廊を作るときは誘われたが、素人がするものではないと断った。
やりかけの画廊は莫大な借金を残して閉鎖した。
92歳で亡くなった父は、その後はその家と特別縁はなかったが、私は、お嬢さんのコン
私の家では、まるで反対で子供のやることに親が口を出すと言うことはなかった。
そうだ。
私の京橋の1972年のプリントアートギャラリーの個展にNさんは現れたのだ。
Nさんは英字新聞に記載された記事を見て、ちょっとNさんらしくない、嫉妬の顔をした。
私は芸大を受けてもいないし、親がかりでなく、身の丈に応じた版画で個展をしたような
68歳の今でも、一応続けているし。
そういえば、お嬢さんの息子は、Nさんの孫だが、「ピアノは目が見えないとか、美人と
あの狂気だった熱意と莫大な投資はなんだったのだろう?
☆ガラス美術館の前の俵石閣はもうない。
有名な建築家の自宅だったのだそうだ。
それを移築して、箱根で旅館になった。
天皇が皇太子のころ、お泊まりになったとか!
そんなに有難いところとは知らなかった。