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ペギー・グッゲンハイム ア-トに恋した大富豪❗ - 縷衣香 NOW!
ruiico
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ペギー・グッゲンハイム ア-トに恋した大富豪❗
 京都シネマは凄くお洒落なビルの中にありました!

 幸い上映時間まで余裕があるので1階のお店でケ-キとコ-ヒ-を飲めました!


❇ペギー・グッゲンハイムのコレクションはヴェネツィアにあります!

 ボストン美術館のスク-ルの3週間のヴェネツィア・スタデイズで娘と訪ねたのでした。

 ちょうどヴェネツィアビエンナーレの年でアメリカ館ではビルの室内の隅々から紅い粉が湧き出てくるインスタレーションが行われてました。

 ペギー・グッゲンハイムは大富豪の娘ですが、現代美術作家のポロックを見出し買い、師として教えられたでデュシャンの作品も購入、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で煌めく現代美術のアーティスト達と関わり合い、生活の援助をし、機会を与え81年の生涯の見事さとタイタニックで亡くなった父や愛する人の突然死(麻酔)と母親と娘の死(自殺)等凡人には耐え難い過酷な運命を背負うタフな人です。

ペギーは多くの作家達と寝る。資金援助、コレクション、とてもタフだ。

妹の双子の男の子もビルから墜ちて二人とも死ぬ。ユダヤの富豪の濃い人生だ!

この人のビジネス感覚が無かったら、ポロックも生まれて無かったかもしれないが、ペギーは鼻の整形手術を試みるが、余りの痛さに断念!

剰りにもアメリカン!

 父親からの遺産は45万ドル。現代ではどの位の額であろうか?

 剰りにも濃い内容なのでもう一回観ないと!

❇私はデザイン科の大学生の時のアルバイトを思い出した。

 カラー現像所でスタジオ撮影があった。

 東横線の都立大学駅の近くだ。

 森ビルのお嬢さんの花嫁姿の撮影でお婿さんはいなかった。

 当時のカリスマ美容師の宮崎さだおがロングのデコラティブの髪のデザインをしていて、ドレスも花嫁さんの顔も覚えていないが、私が21,2歳できっと花嫁さんは24,5から26,7歳だったと思う。

 カリスマ美容師を使っていたぐらいだから今も森美術館の仕事に関与してるかもしれない。

 日本のペギー・グッゲンハイムと言ったら森美術館の娘が現代美術家になっているから、彼女か兄弟の娘くらいか?

 映画で自殺したペギーの娘は「ペギーになりたかった!」と言う。美しく40代くらいだ。

 自由に父親の遺産を使え、当時のアメリカ現代美術の中枢を担う晴れのママ。

 娘でも、そんなチャンスもそんな使命もない。

 自由に使える莫大な遺産と時代に恵まれた現代美術の台頭期に自分は参加してない!

 ママと自分との大きな隔たり。

ポロックのドロッピングア-トは実にコントロールされた洗練された構成力が技術があるのだが、普通の人はそれが見えないし、わからない。

 ペギーは非凡なのだ。大富豪の娘はたくさんいるが、誰もなしえなかったアメリカンドリームをこなした。

 ペギーを利用しようとアーティストは集まったが、ペギーもウンザリしただろうが、誰でもチャンスは欲しいはずだ。

 そして、大金渦巻くア-トの世界で利用もされただろうが成した仕事がすごい。

デュシャンも見越して、育てたのだろう。

 日本では現代美術の最大のギャラリーの南画廊のオ-ナ-が琴の糸で首吊り自殺をした。

 派手なオープニングパ-ティ-で石原慎太郎がきていて豪華な食事が出ていた。

 その向いの小さなギャラリーの看板は川端康成が書いたとかで此花画廊だったが、私の易かるたもそこでの出会いでチャンスを得て商品化された。

 漫画家の太郎と花子の「小さな恋人」トシコ・ムト-が生まれた女性画廊主は向の現代美術画廊のオ-ナ-が「現代美術の時代が来る。失敗したら首を吊って自殺するといつも連呼していた。」と言う。

🌠11月17日、2階の奥のクリスマスツリーを出していたら、此花画廊の経営者の池田清子さんが描いてくれた葉書の大きさの絵が出てきた!

 こちらは此花画廊が育てた村田陶さんの絵。

 サラリーマンの村田さんは絵が上手くなりたいと池田清子さんに相談。「毎日、描きなさい」とアドバイスを受け、桐生から東京までの通勤電車中でひたすら、人物の顔を描いた。

 そうしたら、いつの間にか1万枚描いて、当時のマスコミによく出て、黒柳徹子さんの徹子の部屋にも出ていた。

 村田さんはある時、私に「易カルタ」占いを頼んで、みたら、日本経済新聞の文化欄の記者に「よく当たる」と紹介してくれて、取材された。

 此花画廊も「易カルタ」をよく売ってくれた。マ-ジンなど取られなかった気がする。

 画廊と作家の縁と言うのは、育てるし、世に出すし、それは運なのか不思議だ。

 トシコムト-さんのテレビのタイトルや俳優紹介のバックの絵のオリジナルをテレビ局の人に貰ったことがある。まだ、10代の頃。

 今なら、さくらももこサンくらい有名な漫画家でタロ-とハナコの絵だ。

 モノクロだった。

 捨ててしまったのだろう。取っておくべきでしたが。

 村田陶さんは日にちを書いているので、3回も会って描いてくれたのだが、場所は此花画廊。

 似てると思う。






京橋の一等地のその現代美術の画廊は月の家賃が80万円で、毎晩、作家を銀座の一流バ-に連れだしご馳走し、豪勢なことだったが絵は売れなかったのだ!

私は色々思い出していた!

 その京橋から日本橋まで歩くと現代美術の貸し画廊がいくつかあって、その頃は行くと何処でも水割りを振る舞ってくれるのだった。

 今思うと、やはり、24.5歳だった娘には画廊は優しくて、「ルイちゃん、ラディケ、ランボー!」等とからかってくれて、若いアーティストは幸せだった。

 画家達が貸し画廊の貸し賃を払ってくれないと日本橋に2軒持つギャラリーも潰れた。

 ギャラリーの奥さんがあるときに、ケ-キ1個で私に一日店の留守番をさせようと電話がかかってきたときに母親が出て、タダ働きさせることに相当厳しく批判したようで、ギャラリーの奥さんは「人生でこんなに侮辱されたのは初めてだ。」と言っていた。

 そのようにだらしのないア-トビジネスの世界なので、普通にやってたら生き残れないのは画家も画廊も一緒だ!

あの時に、銀座を歩いていたら週刊朝日の記者が声かけてきて、易カルタの記事を書いてくれすぐに出版社から電話があったのだ。

 当時の週刊朝日は今の文春のように勢いがあって、記者も私と同じ年齢だったから戦後のベビーブーマ-達が大学出て時代を作っているバブルの時だった。

 なんだか、毎日面白くて、毎日出歩いていたが、貧しかったが活気がある時代だった!

 ニューヨークのペギーとはケタ違いながらも私たちの青春も連合赤軍や大学闘争をバックにもちながらも、エネルギーがあったのだ!








疲れました!
お腹も減ったので近くの大丸の上で!
「はげ天」で。



❇クリスタルホテルは7月にできたばかり。安くて(7000円)綺麗で京都駅に近い!












❇ プログラムを読むとわかるペギー・グッゲンハイムの凄さ! 

 莫大な遺産を受け継いだペギーは21歳の頃、ニューヨークのグランドセントラル駅の近くのサンワイズ・タ-ンと言う女性経営の本屋で働く。


 卵とトマトは黒姫から持ってきた!



大丸の隣にあるイタリアのお店!
柘榴の香で衣装ダンスに吊すもの!







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