Ruiico (ruiico) wrote,
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晴れ!

 おせち料理の残りをいただきます!



 コインランドリーに行きます!





 洗濯ものを乾燥機に入れて再びホテルに帰ります。
おせち料理を綺麗に平らげました!


 観てました。





「死後に脚光 近代美術の巨星・ゴッホ 37年の濃密で激しい人生」 
2020.1.1 17:00ライフ学術・アート


フィンセント・ファン・ゴッホ≪パイプと麦藁帽子の自画像≫1887年9-10月、パリ 油彩、カンヴァス ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)(C) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
 東京・上野公園の上野の森美術館で開催中の「ゴッホ展」(産経新聞社など主催)で連日、多くの来場者が鑑賞を楽しんでいる。近代美術史に輝く巨星、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90年)が時を超えて愛されるのは、作品の魅力のみならず、不器用でまっすぐな生き方が共感を得てきたからだろう。短くも濃密なゴッホの37年の人生とは-。   
(文化部 黒沢綾子)

扱いづらい少年

 1853年、オランダ南部の村フロート・ズンデルトで、ゴッホは6人きょうだいの長男として牧師の家に生まれた。


 少年期から気難しく扱いにくい性格で、学校にもうまくなじめなかったようだ。16歳のとき、画商だった伯父が経営に携わるグーピル画廊ハーグ支店に職を得て、ロンドン支店やパリ本店にも勤務した。語学にたけ文学に親しむゴッホだったが、20歳のころ失恋をきっかけに聖書の教えに傾倒。仕事に身が入らなくなった。

神学部受験で挫折

 23歳で画廊を事実上クビになったゴッホは、職を転々とした末に、父と同じ聖職者を目指す。

 アムステルダム大学神学部の受験に挫折し、伝道師養成所に通うも資格は得られず。でもゴッホはあきらめない。ベルギーの炭鉱地、ボリナージュで仮免許の伝道師になると、貧しい炭鉱員らに物心ともにささげ、自分はぎりぎりの生活を送ったという。だが、そんな過度な献身が周囲には危うく映ったのか、任を解かれてしまった。


 何でも極端に走り、周りを引かせてしまう。そんなゴッホが最後に見つけたのが、人々を導き感動を与える「絵画」。1880年、画廊に勤める弟テオの勧めもあり画家を志したとき、彼は27歳になっていた。

「暗い色」の時代

 生前、絵が1枚しか売れなかったゴッホは、経済的には自立できなかった人、ということになる。寛容な両親に続き、テオが兄の画業と生活を支え続けた。

 画業の初期であるオランダ時代、ゴッホの絵は暗い。「代表作『ひまわり』など皆さんがよく知る“ゴッホの絵”にたどり着くまでには、試行錯誤があった」と上野の森美術館の坂元暁美学芸員は語る。

 ゴッホはほぼ独学だが、オランダのグループ「ハーグ派」の画家で縁戚にあたるアントン・マウフェに基礎を学んでいる。敬愛するフランスの画家、ジャン=フランソワ・ミレーやハーグ派の影響を受けて、彼は初期の代表作「じゃがいもを食べる人々」をはじめ、農村で土にまみれて働く清貧の人々を写実的に描いた。私生活では寂しさと同情からか、子供がいる身重の売春婦と同居したりしたが、長くは続かなかった。


パリからアルルへ

 1886年、32歳のゴッホは突然、テオのいるパリへ向かう。印象派・ポスト印象派画家との交流を通して、ゴッホの絵に明るい色彩、筆跡を残す描法が現れた。

 もう一つ、彼の絵に影響を与えたのが、兄弟で買い集めていた日本の浮世絵だ。模写したり、鮮やかで平坦な色面構成をまねしたりしている。

 面白いことにゴッホは、光あふれる南仏に、浮世絵に見る日本の鮮やかな風景を重ねていた。1888年2月、南仏アルルに降り立った彼を迎えたのは光ではなく大雪だったが、「日本人が描く冬景色のようだ」と感激し、弟に書き送っている。

 アルル時代から最晩年まで、ゴッホはひまわりや麦畑、ブドウ畑など、自然の息吹や恵みをいきいきと描いている。厚塗りのうねるような筆触は力強い。


 芸術家の共同体を夢見ていたゴッホはアルルに画家ポール・ゴーギャンを招き入れるが、性格や方向性の違いから共同生活はわずか2カ月で破綻。同年の暮れ、ゴッホは自分の耳の一部を切り落とし、精神疾患の発作を起こす。いわゆる「耳切り事件」である。

療養と制作、最期の日々

 1889年の春、テオが結婚すると、ゴッホは自らアルルに近いサン=レミの精神科療養院に入院。発作と闘いつつ、窓からの景色などを精力的に描いた。翌90年、ブリュッセルの展覧会に出品した「赤いブドウ畑」が400フラン(現在の30万円程度か)で売れるなど、一筋の光が差し込む。

 5月、肖像画でもおなじみのガシェ医師を頼ってパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移った。ゴッホは1日1枚ペースで精力的に描いてゆくが-。


 7月27日、ゴッホは麦畑の近くで自らをピストルで撃ち、2日後テオに見守られて亡くなった。半年後、テオも後を追うように病で世を去った。

義妹ヨーの貢献

 ゴッホが死を選んだ理由はわかっていない。ただ、死の20日ほど前、息子のいるパリのテオ宅を訪れた際に一家の困窮ぶりに驚き、自分が負担になっていると心を痛めたのが一因という説がある。

 わずか10年の画業で、ゴッホは860点の油彩を含む、およそ2000点の作品を残した。43歳で亡くなったフェルメールの現存作品が35点前後だから、極めて多作といえる。

 死後まもなく時代はゴッホに追いつき、作品の真価は広く認められてゆく。背景にはオランダ各地でゴッホの遺作展や回顧展を開いたテオの妻、ヨー(ヨハンナ)の尽力があった。彼女はゴッホの書簡集も出版するが、そもそも生前無名だったゴッホの歩みをたどれるのは、彼が遺した膨大な手紙をおかげ。特にテオあては658通に及ぶ。


 日本でも明治から大正時代に変わる頃、白樺派らがゴッホを紹介、熱心なファンが増えたという。バブル期には日本の実業家が「医師ガシェの肖像」を約125億円(当時)で落札、世間を騒がせたことも。

 いずれにせよ、ゴッホが美術史の重要作家に位置づけられる上で、ヨーが果たした役割は極めて大きかったようだ。



 「ゴッホ展」は1月13日まで。開館は午前9時半~午後5時(金・土曜は午後8時、入場は閉館30分前まで)。また、兵庫県立美術館(神戸市)でも1月25日から3月29日まで開かれる。

特集:ゴッホ展
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