Ruiico (ruiico) wrote,
Ruiico
ruiico

芸術とお金。



 私は、女子美術大学の産業デザイン科グラフィックデザイン専攻を出たので、20代の頃はほとんど注文されて、仕事をしてました。

 世はバブルの直中でとても景気の良いときでしたから、学生時代から、皆、あまり経済的な不安は無かったと思えます。

 私は、大学の時から働いてきました。世の中の事が知りたくて、楽しくて仕方がなかったです。

 ほとんど大学にきたアルバイト募集が中心でした。
 最初は、新宿伊勢丹のバ-ゲン売り場のレジでした。カラ-写真の現像所の結婚式写真の修正、円谷プロでウルトラマンの宇宙人が地図屋に化けて、二十四面体のフ-ラ-の地球儀を作ったり、彫美堂と言う表具屋さんで、色紙やカルタ貼りなどしました。

 大学卒業時に、資生堂の中條正義講師に、120点(100点満点)いただいたのですが、「あまりにも完成していてもう伸びない。」と言われたので、卒業後は人の目に触れないようにボランティアを始めました。
 「軽井沢に行きたい。」と言う人の願いを叶えようと、夏の軽井沢のお店の住み込みのバイトを探し、自分も働かないとフェアでないなと、働いていると、渋谷西武百貨店の企画の人が来て、「12月に個展をしないか?」と話しがあったのでした。
 伸びないかもしれないが、西武百貨店での個展は、若者向けの1階から地下への壁だったと記憶してます。
 お能からテ-マを選び、和紙と墨絵の小さなコラ-ジュが中心で、「評判が良いから1週間延長だよ。」と、1月もやってました。どういうわけか、「インテリジェンスの孤独」と評価されました!

 自由が丘画廊のオ-クションで、「池田満寿夫や靉嘔だって5円から始まったんだぞ。」と言われ、安価な値段をつけられたのですが、「5色のシルクスクリーン版画が原価130円です。」と言ったら、正直さが受けて、パチパチパチと拍手され、飛ぶように売れました。
 私は世間知らずで、靉嘔の刷り師に200枚のシルクスクリーン版画を刷って貰ったのですが、それは常識的な数でないらしく「ピカソ並みですね。」と、皮肉を言われたりもしました。しかし、田園調布の民芸品屋さんに置いて貰えたのですが、「ルイチャン、黙っ座っているのよ。」と、女主人に言われ座っていると、客が来て10000円で買っていきました。絵の値段は有ってないもなので、版画は同じものが幾枚もあるので、その時間的な節約で勉強したり、次の仕事の案を考えたりできるので、良かったです。それが、「おみくじ版画」で、出雲大社の二十六番大吉のおみくじを二年続けて引いた事を記念に「あなたに幸運を贈呈します。」と言う作品です。
no title

 1972年、気を良くして、京橋のプリントア-ト・ギャラリーで「占い版画」を発表しました。
 「名あるもの形あるものが信じられなくて、占いの世界をア-トにしてみました」と言う皮肉めいた作品です。
no title
no title
no title

 版画は、毎日デイリーニュース紙に、写真入りで紹介されました。
 私は何のバックグランドもないのですが、アメリカ人が何の偏見もなく5人のア-ティストを取り上げてくれたので、未来に希望がもてました。あとは、山口長男や小野木学など著名な方達でした。



 訳
 彼女は、流異と名のっているが、他と異なって流れると言う意味である。(変化の流れ)
 未来を占う-手相、占星術、中国暦など。

 彼女は、わかりやすく言うと、日本の伝統的和紙をモチ-フにして、巧みに白地に注意深く技法とリズミカルなパタ-ンが流れ、書はアクセントとして洒落ている。
 顔の真ん中の鼻は花となり、発音が同じ日本語漢字となってる。

 ルイの作品は、可愛すぎる(超可愛い)。陽気で生き生きとしている。

 訳し終わったので、娘に読ませるとヨ-ロッパ的感性で絵の批評に音楽用語を使ったり
punと言うのは、駄洒落なので絵の表現にも使うのかと感心していた。終わり

 売れたのは、易色紙と言うミニ色紙サイズの和紙コラ-ジュでした。

 易色紙はやがて易カルタとなり、定価の10%の印税をいただきました。二種類出版されました。26歳くらいの時でした。
 銀座を歩いていたら週刊朝日の記者が声をかけてくれ、記事が出た途端、出版社から電話がありました。
DSC_2347.JPG

豆団扇はホテルオークラの中のフランネルギャラリーで扱って頂き、いつもチェ-スマツハッタンバンク小切手で支払われました。
 このギャラリーはアメリカ人の女性が経営していて、篠田桃紅さんのリトグラフ扱っているような現代美術のギャラリ-でした。



no title
no title
no title
158029486638937381916.jpg

ファンシ-グッズ!



年賀状は400万枚売れたそうで、道を歩いていると文具屋さんに置いてあったりしました。初めて会った人に、「あなたの年賀状で今年2通きた。」と言われたこともありました。クイン社からは報酬をたくさんいただいたのですが、社長は、ルイコさんの取り分がすくないので、その分儲かりました。」と言われました。


カルタ好き





 百人一首は、結婚して娘が生まれる前後に、1年かけて作りました。
 実家に子連れで帰り、母親に食事を作って貰い、1日1枚、読み札と取り札200枚を、描くため、制作してました。主人には、毎晩勤め帰り寄って貰い、母親作った夕食を食べはいはいを始めた娘と遊んでもらい通って貰いました。
 今、思うと嫁ぎ先も実家も総動員して、ア-ト稼業に明け暮れていたのでした。有り難い事です。
 頑張った作品は結果も良く、関西NHKで取り上げられ、評論家の先生二人が、尾形光琳のカルタを引き合いに、新しい時代には新しい百人一首があっても良いと言って下さいました。
 複写写真を要求され、姑が友人に紹介を受け、日本一の有賀写真館に依頼したのですが、信じられないことですが、5枚の複写写真3枚づつで25万円の額になり、依頼主に請求書送ったところ、担当のディレクターが自腹で分割で払うと言うので、感謝もしご恩に報うだけの仕事をしなければと肝に命じました。
 百人一首は、当時皇太子妃の美智子様への献上品に選ばれ、私がパリ滞在中だったので、姑が水引きをして皇居に届けました。
 パリのカルタ美術館に買い上げられ、常設展示されてます。ロダン、マチス、ドビュッヒェコレクションのある市立美術館で、1999年にヨーロッパで優秀な美術館として表象されたところなので、本当に嬉しかったです。ダリのカルタもありました!

 こういうチャンスはどこから来るのかと言うと、私は、「絵はあげなさい。」と言うアドバイスを若い時に受けました。この場合、日本のカルタ同好会に百人一首を寄付した縁で、パリのカルタ美術館に個展案内を出しなさいと言われたのでした。個展にいらしてから、7年も経って東京の自宅に、「買いたい」と手紙が届いたのでした。ヨーロッパの長いスパンに、改めて芸術の普遍性や永久性を学びました。


豆本好き。


 パリ個展は、百人一首の売り上げで実現できたと思います。
 初めは予約価格が3万円だったか38000円だったかの百人一首は、お台場のホテルギャラリーで8万円で売られてました。
Subscribe
  • Post a new comment

    Error

    default userpic
    When you submit the form an invisible reCAPTCHA check will be performed.
    You must follow the Privacy Policy and Google Terms of use.
  • 0 comments