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3時までNetflexを観ていたのだ!テレビで放映されていたドラマで10話あったので終わるまで観たので時間がかかった!

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午後は暗くなったので中止!






ヤン・ファン・エイク
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ヤン・ファン・エイク(蘭: Jan van Eyck、1395年頃 - 1441年7月9日)は、初期フランドル派のフランドル人画家。

ヤン・ファン・エイク
Portrait of a Man by Jan van Eyck-small.jpg
『ターバンの男の肖像』 (ヤン・ファン・エイクの自画像の可能性がある)、1433年
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
生誕
Jan van Eyck
1395年以前
死没
1441年7月9日
ブルゴーニュ領ネーデルラントブルッヘ
国籍
フランドル
著名な実績
絵画
運動・動向
初期フランドル派
後援者
ブルゴーニュ公フィリップ3世
主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパ[1]でもっとも重要な画家の一人と見なされている。

わずかに残る記録から、ファン・エイクは1390年ごろの生まれで、おそらくマースエイク出身だと考えられている。ファン・エイクの幼少期についてはほとんど伝承不明であるが、ブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた1425年ごろからの記録は比較的整理され残存する。フィリップ3世の宮廷に出仕する以前は、エノー、ホラント、ゼーラントを支配していたバイエルン公ヨハン3世に仕えていた。当時のファン・エイクはすでに自身の工房を経営しており、ハーグのビネンホフ城の再装飾の仕事に従事。1425年ごろにブルッヘへと移住したファン・エイクはフィリップ3世に認められ、宮廷画家、外交官としてその宮廷に仕えるようになった。その後、トゥルネーの画家ギルドの上級メンバーに迎えられ、ロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンといった、初期フランドル派を代表する画家たちと親交を持った。

生涯と画家としてのキャリア 編集
幼少期と家族 編集
ヤン・ファン・エイクの誕生日、生誕地はともに伝わっていない。その生涯における現存する最古の記録はバイエルン公ヨハン3世の宮廷のもので、1422年から1424年にかけての、一人から二人の助手を持つ近侍 (en:valet de chambre) の地位を兼任する宮廷画家である「優れた画家ヤン (Meyster Jan den malre )」に対する支払記録である[2]。このことから、ヤンの生年が遅くとも1395年以前であることがわかる。しかしながら、1433年に描かれたロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する[3]自画像と考えられている『ターバンの男の肖像』の外貌からみて、ほとんどの美術史家が1395年よりも早い1390年に近い年に生まれたとしている。


『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵で、「作者 G」が描いた『洗礼者ヨハネの誕生』。この「作者 G」はヤン・ファン・エイクではないかと考えられている。
1500年代の終わりになってから、ファン・エイクの生誕地がリエージュの教会教区マースエイクであるという見解が発表された[4]。当時の通称には出身地を付与することが多く、「ファン・エイク」が「エイク(出身)の」を意味することから、現在でもこの説を採用する美術史家は多い。さらに娘のレフィーネが、ファン・エイクの死後にマースエイクで修道女になったこともこの説を裏付ける証拠とされている[5]。

ネーデルラントで制作された未完の有名な装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』には複数の画家による挿絵が描かれているが、このうち「作者 G」として知られる画家はヤン・ファン・エイクだという説がある。もしこの推測が正しければ、『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵が、現存するファン・エイクの最初期の作品ということになる。『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵のほとんどが1904年の火災で焼失してしまい、現在残っているのは写真や複製画となっている。

ヤン・ファン・エイクの兄は、ヤンと同じく優れた画家だったフーベルト・ファン・エイクで、両名ともに同じ場所で生まれたと考えられている。ヤンのもっとも有名な作品である『ヘントの祭壇画』はファン・エイク兄弟の合作であり、1420年ごろに制作を開始したフーベルトが1426年に死去したため、ヤンが制作を引継いで1432年に完成させた作品である。もう一人の兄弟ランベルトもブルゴーニュ宮廷の記録に名前があり、同じく画家でヤンがブルッヘで経営していた工房を監督していたとされている[6]。さらに、ヤンよりも年少で北フランスで画家として活動していたバルテルミー・ファン・エイクも親族だったのではないかと考えられている。

円熟期とフィリップ3世からの寵愛 編集
宮廷画家として仕えていたバイエルン公ヨハン3世が死去すると、ファン・エイクは1425年に、当時大きな権力と政治的影響力を持っていた、ヴァロア家の一員であるブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた。ファン・エイクは当初リールに居を構えたが、一年後にはブルッヘへと移り、1441年に死去するまで当地で暮らしている。ファン・エイクのフィリップ3世の宮廷での活動に関する、多くの文献が20世紀に出版された。フィリップ3世の代理としての外交官を務めることもあり、絵画制作自体が重要な外交任務となることもあった。しかしながら、フィリップ3世とイザベル・ド・ポルテュガルの婚儀をとりまとめる代表団の任務の一環として、1428年から1429年にイザベラの肖像画を2点描いたこと以外は、ファン・エイクが果たした外交上の業績はよく分かっていない[7]。

フィリップ3世の宮廷画家、近侍 (en:valet de chambre) として、ヤン・ファン・エイクは並外れて多くの報酬を得ていた。宮廷に迎えられた当初から年収は非常に高かったうえに、その後数年間で二度もそれまでの倍の年収に引き上げられており、さらには特別手当が追加されることも多かった。当時の初期フランドル派の画家の大部分が、不特定多数からの個人的な絵画制作依頼によって生計を立てていた中、このような高年収を得ていたファン・エイクは画家たちのなかでも特別な地位を占めるようになった。ファン・エイクがフィリップ3世から非常に高く評価されていたことを示す記録が残っている。これは、1435年にフィリップ3世が財務担当官に対して、ファン・エイクへの報酬が未払いになっていることを叱責した記録で、もしファン・エイクがブルゴーニュ宮廷を去ってしまったなら、その「芸術と学識」の面で替わりになる人物はどこにもいないではないかというものである。さらにフィリップ3世はファン・エイクの子供の名付け親になっているほか、ファン・エイクが死去した際には未亡人に援助を行い、その数年後にファン・エイクの娘の一人が修道院に入るために必要な費用を出したりもしている。

作風 編集
ヤン・ファン・エイクは宮廷画家としてだけではなく、市井からの個人的な絵画制作依頼も受けていた。それらの絵画の中でもっとも重要な作品が、富裕な商人ヨドクス・フィエトとその夫人エリザベト・ボルルートの依頼で描いた『ヘントの祭壇画』である。製作途中に死去した兄フーベルトの後を継ぎ、1432年ごろに完成したと考えられているこの多翼祭壇画は、「北ヨーロッパ写実主義の最終到達点」とまで言われている。イタリアでの初期ルネサンスの作品群とは異なり、ファン・エイクを始めとする初期フランドル派の画家たちが追求したのはギリシア・ローマ時代の理想化の再現ではなく、自然そのものを正確に観察して絵画に表現することだった[8]。また、ファン・エイクが行ったことで当時としては例外的だといえることが、署名と制作日付を自身の作品に書き入れることで、後にこの行為は絵画制作に不可欠なものだと見なされるようになっている。

評価と後世への影響

『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
背景の壁面中央には「ヤン・ファン・エイクここにありき」という銘があり、さらにその下の丸い凸面鏡にはヤン・ファン・エイクの自画像と思われる人物が小さく映りこんでいる。
ヤン・ファン・エイクに関する最初期の重要な文献は、イタリア人人文学者、歴史家バルトロメオ・ファツィオ (en:Bartolomeo Facio) が1454年にジェノヴァで出版した『偉人伝』で、ファン・エイクは当時「第一級の画家」として紹介されている。さらにファツィオはファン・エイクを、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ、ピサネロとともに、15世紀世紀前半で最高の芸術家であると位置づけている。イタリア人のファツィオが自国の画家と同様に、ネーデルラントの画家たちにも強い興味を示していたことは注目に値する。『偉人伝』には、ファン・エイクの現存していない作品にもわずかながら言及があり、著名なイタリア人のコレクションに所蔵
所蔵されていたことなどが書かれているが、まったく別人の作品をファン・エイクの作品であるとして誤った同定をしている箇所もある[9]。ファツィオは、ファン・エイクが十分な教育を受けた人物で、古典、とくに古代ローマの博物学者大プリニウスの美術論に精通していたと記している。古代ローマの詩人オウィディウスの著作『恋愛術』から引用した語句が『アルノルフィーニ夫妻像』のオリジナルの額(現存していない)に刻まれていたことからも古典に詳しかったことが伺え、さらに、多くの作品にラテン文字で書かれた銘が見られることも、ファン・エイクが十分な教育を受けた人物であったことを裏付けている。ヤン・ファン・エイクがラテン文字に詳しかったのは、フィリップ3世の命で諸外国へと旅した経験が役立っていた可能性もある。


『ファン・デル・パーレの聖母子』(1434年)
グルーニング美術館(ブルッヘ)
ヤン・ファン・エイクが後に埋葬される、聖ドナトゥス協同教会の司教座聖堂参事会員ヨリス・ファン・デル・パーレからの依頼で描かれた。
ヤン・ファン・エイクがブルッヘで活動を始めてからの10年間で、革新した油彩技法によって、その評価と絵画技術は格段の進展を見せた。ヤン・ファン・エイクの革命的ともいえる油彩技法の刷新は、16世紀のイタリア人画家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』によって伝説となり、ファン・エイクが油絵具を発明したといわれるようになった[10][11]


ヘントのシント・バーフ大聖堂前庭に建てられたフーベルト・ファン・エイクとヤン・ファン・エイクの像。
現存する歴史的文書から、ファン・エイクは生前から北ヨーロッパ中で絵画に革命を巻き起こした巨匠と見なされていたことが分かっている。ファン・エイクの絵画構成と手法は幾度となく模倣された。美術史における画家のモットーのうち、最初期にしてもっとも代表的ともいえる、ヤン・ファン・エイクの「我に能う限り (ALS IK KAN )」が最初に見られるのは、1433年の作品で自画像ではないかと言われ、当時の自負心が浮かび上がるかのような『ターバンの男の肖像』である。1434年から1436年にかけてが、ヤン・ファン・エイクの最盛期とされ、この時期に『宰相ロランの聖母』、『ルッカの聖母』、『ファン・デル・パーレの聖母子』などの名作が描かれた。また、この時期にかなり年下のマルガレーテと結婚している。1437年の記録から、ファン・エイクがブルゴーニュ宮廷の最上流階級から非常に高い評価を得ていたことと、諸外国からも多くの制作依頼を受けていたことが伺える。


ブルッヘのヤン・ファン・エイク広場にあるヤン・ファン・エイクの像(位置)[12]
ファン・エイクは1441年7月9日にブルッヘで死去し、同地の聖ドナトゥス協同教会[13]に埋葬された。残された多くの未完成の作品は工房の職人たちが引継いで完成させている。現在でも、工房が完成
させた作品であるとはいえ、初期フランドル派の絵画作品の好例であると見なされている作品が多い[14]。ブルゴーニュ公国のみならず諸外国にまでファン・エイクの名声が広まったのは、当時のブルゴーニュ公国が政治、芸術の中心地だったことも大きく影響していた。



出典、脚注
参考文献
邦語文献

絵の具に画家の名前がある!


一番高いのがブリューゲル レッド!
これで6000円!

「農民の婚礼の踊り」

ピ-テル・ブリューゲル2世
ピーテル・ブリューゲル
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曖昧さ回避 この項目では、1520年代出生の画家について説明しています。1560年代出生の画家については「ピーテル・ブリューゲル (子)」をご覧ください。
ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel(Brueghel) de Oude [ˈpitər ˈbrøːɣəl], 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)は、16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。

ピーテル・ブリューゲル
Pieter Bruegel(Brueghel)
Petro Bruegel Pictori.png
死後に発表された肖像画(1582年)

生誕
1525年-1530年頃
ブラバント公国、ブレー
死没
1569年9月9日
ブラバント公国、ブリュッセル[1]
著名な実績
絵画
代表作
『農民の踊り』、『子供の遊戯』、『雪中の狩人』
影響を受けた
芸術家
ヒエロニムス・ボス
同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。

生涯
ブリューゲルの生涯に関する資料は極めて少なく、ほとんど1604年のカレル・ヴァン・マンデルによる伝記しかない。しかし、この伝記は逸話的な要素が多く、必ずしも正確とはいえない。また、ブリューゲル自身は何も文章を残していない[2]。

前半生(-1551年) 編集
ブリューゲルの生年・生地ははっきり分かっていない。マンデルの伝記によれば、ブレダ近くのブリューゲル (Breughel) という村で生まれたという。しかし、フランドル地方にはブリューゲルという名前の村が3つあるが、いずれもブレダからは離れている。ブリューゲルと同時代にアントウェルペンに住んだイタリア人Guicciardiniは、ブリューゲルをブレダ出身としている。マンデルは、ブリューゲルが農民を数多く描いたことから彼自身も農民出身だと考えたようだが、むしろ、人文主義者とも交流を持つ、教育を受けた都市生活者であったと考えられ、後者の方が正確である可能性が高い。ただ、彼の先祖はブリューゲルという名前の村出身であった可能性がある[3]。

1551年、アントウェルペンの画家組合(ギルド)である聖ルカ組合に"Peeter Brueghels"という名前で加入が登録されているのが最初の記録である。組合に新規加入するのは通常21歳から26歳の間であったことから、逆算して、1525年ないし1530年頃に生まれたものと推定されている[4]。

マンデルによれば、ブリューゲルはアントウェルペンでピーテル・クック・ファン・アールスト(英語版)から絵を習ったという。クックは当時最も尊敬を集めた画家の一人であり、神聖ローマ皇帝カール5世に仕えた宮廷画家であるとともに、彫刻、建築、タペストリーやステンドグラスのデザインも手がけていた。また、ブリューゲルに影響を与えたことが確実なもう一人の人物はブラウンシュヴァイク・モノグラミスト(英語版)(ヤン・ファン・アムステル(英語版)と同一人物と比定されている)である。ファン・アムステルはピーテル・クックの義兄であり、ブリューゲルに風景画、人物画双方における影響を与えた[5]。

マンデルによれば、ブリューゲルはピーテル・クックのアトリエを去ってから、アントウェルペンの版画業者ヒエロニムス・コックの下で働くようになった。また、遅くとも1550年9月から、1551年10月までは、アントウェルペンを離れ、メヘレンのClaude DoriziのアトリエでPieter Baltenとともに手袋製造業者のギルドのために祭壇画を制作している[5]。

イタリア旅行(1551年頃-1554年頃) 編集
1551年にアントウェルペンの画家組合に加入してからほどなく、ブリューゲルはイタリアに発った。リヨンを経てモン・スニ峠を越える路程で、画家マールテン・ド・フォスも一緒だったと思われる。ブリューゲルはローマ滞在には飽きたらず、1552年、南イタリアのカラブリア州まで赴いたことが、同年トルコの攻撃で焼けたレッジョ・ディ・カラブリアの街を描いた素描から推測される。レッジョから、さらにメッシーナまで行ったことも、彼の版画から推測される。ブリューゲルの「死の勝利」はシチリア島・パレルモのスクラファーニ宮殿(英語版)にあるフレスコ画に基づいたものであるとして、彼がパレルモまで足を延ばしたという説もある。ブリューゲルの最初期の作品である「イタリア風回廊のある山の風景」(1552年)と「背景に山のある渓谷」(同年)は、南イタリアで描かれたものである可能性がある。「ナポリ湾の戦い」の油絵も、南イタリアへの旅を裏付ける[5]。

1553年までに、ローマに戻ったと思われる。Joris Hoefnagelによる2枚のエッチングに、「ピーテル・ブリューゲル画、ローマ、1553年 (Petrus Bruegel Fecit Romae Ao 1553)」という銘が入っている。また、ローマの「リパ・グランデの港」の素描も残っている。さらに、ローマの啓蒙家ジュリオ・クローヴィオ(英語版)の収蔵品目録に「半分を自分が、半分をピーテル・ブリューゲルが描いた細密画」、その他ブリューゲルの「バベルの塔」、ガッシュ水彩画「リヨンの眺め」等数点の作品が記載されていることも、ローマ滞在の証拠である[6]。

ブリューゲルは、遅くとも1554年には北方に戻っている。その時の道のりについては、モン・スニ峠、スイス、リヨンを通ったのか、これより東のミュンヘンを通るルートだったのか、争いがある。マンデルは、「ブリューゲルはアルプスで全ての山々と岩々を飲み込み、帰ってから、それをキャンバスとパネルの上に吐き出した」と書いている[6]。

アントウェルペン(1554年頃-1562年) 編集
ブリューゲルは、1555年までにはアントウェルペンに戻っている。1555年、ヒエロニムス・コックが「大風景画」と呼ばれる12枚の版画を出版していることから分かる。ブリューゲルの油絵で日付の付されたものは、1557年が最初である[6]。

当時のアントウェルペンは、アジアへのアフリカ航路、アメリカへの大西洋航路の開拓などにより、地中海沿岸都市に代わり大航海の一大拠点となるとともに、絹・香辛料をもたらす中東、穀物を産するバルト海、羊毛を産するイギリスを結ぶ南北貿易でも栄え、ヨーロッパの中で成長著しい都市であった。芸術も盛んであり、1560年には360人の画家がいたと言われる(1569年時点でアントウェルペンの人口は約89,000人)[7]

ブリューゲルは、アブラハム・オルテリウスや出版業者クリストフ・プランタンなど、オランダの著名な人文学者たちと親交を持っていた。1559年から、彼はブラックレター体の"brueghel"からローマ大文字の"BRVEGEL"に変えているが、Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用したものと考えられる[6]

1562年の作品「2匹の猿」には、後景にアントウェルペンの港町が描き込まれている[8]


「大きな魚が小さな魚を食う」1557年。版画。

「2匹の猿」1562年。

ブリュッセル(1563年-1569年) 編集
1563年、ブリューゲルは、マリア・クック(1545年生? - 1578年没)と結婚した。マリアは、ピーテル・クックと、啓蒙家で水彩画家のMayken Verhulstとの間の末娘である。ブリューゲルは、結婚と同時にブリュッセルに移り住んだ。彼の主要作品の多くはブリュッセル時代に制作された。マリアとの間には、長男ピーテル・ブリューゲル、次男ヤン・ブリューゲルと娘1人が生まれた[6]。

1567年8月、スペイン王フェリペ2世から派遣された第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドがブリュッセルに入市し、プロテスタント(新教徒)に対する激しい弾圧を行った。ブリューゲルはこの事態を間近で見ることとなった。

マンデルによれば、ブリューゲルは、死の直前、妻に、「余りに直截的・風刺的な」素描を焼き捨てさせたという。マンデルは、「後悔の念からか、妻が迫害されたり何らかの形で責任を問われたりすることを恐れたためか」と記している。この記述をめぐって、ブリューゲルの政治的・宗教的立場が、例えば再洗礼派のように、微妙なものであったのではないかという推測が行われてきた。ブリューゲルは、メヘレン大司教アントワーヌ・ド・グランヴェルから尊崇を受けており、フェリペ2世に仕えたアブラハム・オルテリウスとも親友であった一方、哲学的には新ストア主義(英語版)に近く、デジデリウス・エラスムスやトマス・モア、Dirck Volckertszoon Coornhertの著作にも親しんでいたと思われる。ただ、特定の党派に属するものではなかった可能性が高い[9]。

1569年、30代末-40代前半で没した。ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会(英語版)(Église Notre-Dame-de-la-Chapelle) に埋葬されている[10]。

作品

ブリューゲルの油絵は40点ほどが知られている。そのうち12点がウィーンの美術史美術館に収蔵されているが、これはネーデルラント総督エルンスト・フォン・エスターライヒ(1594年)及びその兄である神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が収集したものであり、ハプスブルク家コレクションに属していた。上記の約40点以外に、現存しない作品や、複写でしか残っていない作品がある[11]。

また、素描及び版画も多く残っている。1907年には、104点の素描がブリューゲルのものとされていたが、その後の研究で他の画家によるものであることが判明したものが多く、現在でも真偽に争いがあるものも多い。しかし、例えば1556年-1558年にコックが出版したエッチングの下絵はブリューゲルのものであり、「第2のボス」との名声を確立することになった[12]。

初期(1553年-1560年) 編集
最も早期の作品は、1553年頃の「使徒に出現するキリストのある風景」であり、その中の人物はマールテン・ド・フォスが描いたものである可能性もある。また、「イカロスの墜落」の最初のバージョンも若い時に描かれたと思われる[11]。ベルギー王立美術館所蔵の「イカロスの墜落のある風景」は、長い間ブリューゲル作とされてきたが、現在では無名の画家がブリューゲルのオリジナルを模写したものであると考えられている[13][14]。

「ネーデルラントの諺」(1559年)は、初めてブリューゲルらしさが発揮された作品である。これと「子供の遊戯」(1560年)、「謝肉祭と四旬節の喧嘩」(1559年)は、併せて初期の3大作品といえる[15]。


「ネーデルラントの諺」1559年、ベルリン美術館。



「謝肉祭と四旬節の喧嘩」1559年、美術史美術館。



「子供の遊戯」1560年頃、美術史美術館。
中期(1561年-1564年) 編集
1562年には、「叛逆天使の墜落」、「悪女フリート」を制作している。また「死の勝利」も日付が付されていないが主題の類似性からして同時期に制作されたものと推定される。この3作品は、ヒエロニムス・ボス風の絵画を希望したパトロンの注文に応じて制作されたものであろうと指摘されている。「叛逆天使の墜落」では、天使たちが天上から落ちながら怪物に姿を変えられているところが描かれており、ボスの作品に着想を得たものと考えられる[16]。

1562年には他に「2匹の猿」、「サウルの自害」を制作しているが、続く1563年に「エジプトへの逃避途上の風景」と「バベルの塔」(第1バージョン)という傑作を生んでいる[17]。1564年には、大判の「ゴルゴタの丘への行進」を制作している[18]。


「悪女フリート」1562年、マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館


「叛逆の天使」1562年、ベルギー王立美術館。



「死の勝利」1562年頃、プラド美術館。



「バベルの塔」1563年頃、美術史美術館。

後期(1565年-1569年) 編集
晩年は、ブリューゲルが、それまでの風景、人物の描き方、構図における経験を結集させた時期である。約40点の油絵のうち、約30点が晩年6年間のブリュッセル時代に制作されたものである。1565年には、有名な連作月暦画のほか、宗教的主題の冬の風景画、「洗礼者ヨハネの説教」、「農家の婚礼の踊り」、「鳥の罠のある冬の風景」などを制作した[18]。

連作月暦画は、1565年に1年がかりで完成され、当初、アントウェルペンの商人ニコラース・ヨンゲリンク(ドイツ語版)の室内を飾ったと思われる。1566年、ヨンゲリンクによって、他のブリューゲルの作品やアルブレヒト・デューラー、Frans Florisの絵とともに、16,000ギルダーの借金の担保に供された。この担保は没収され、1594年、市が連作月暦画をエルンスト・フォン・エスターライヒ総督に献上した。6枚の月暦画があったと考えられ、そのうち「暗い日」(早春)、「干し草の収穫」(夏)、「穀物の収穫」(秋)、「牛群の帰り」(晩秋)、「雪中の狩人」(冬)という5枚が現存している。春を描いたと思われる6枚目は失われている[19]。

「農民の婚宴」(1568年頃)と「農民の踊り」(1568年頃[20])は、画面前景に大きく人物らが描かれた構図であり、寓意的意図があるというよりは、伝統的な結婚式の様子を描いたものと考えられる。この2作品はスタイル、内容ともに似ており、対で描かれたものではないかと考えられてきた[21]。一方、後期には、「怠け者の天国」、「足なえたち」、「盲人の寓話」のような寓意的作品も描かれている。「盲人の寓話」(1568年)は、マタイによる福音書15:14の「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」という言葉に基づいた作品であり、人類の精神的盲目性を象徴している。「農夫と鳥の巣取り」(1568年)は謎の多い絵で、その意味は解明されていない。「絞首台の上のカササギ」(1568年)も様々な解釈がされてきた。


「雪中の狩人」1565年、美術史美術館。

怠け者の天国」1567年、アルテ・ピナコテーク。



「農民の婚宴」1568年、美術史美術館。



「農民の踊り」1568年、美術史美術館。


「足なえ達」1568年、ルーヴル美術館。





評価
農民たちの生活を多く題材にしたことから「農民画家」とも呼ばれた。

画家自身、人文主義者とも交流のある教養人であり、この時代の絵画題材は農民を「無学で愚かな者」の象徴として描写されたものが多かったため、以前はブリューゲルの絵画もその例にならっただけであるとの説を採り、絵の中にキリスト教的な寓意を読み取ろうとする見方が多かった。

これに対し、森洋子や阿部謹也は、農作業に向かう娘たちの初々しい表情や、結婚式に集まる人々の歓喜の様子といった、彼らの生活の隅々にまで入り込み、「人間」としての農民たちの生き生きとして細を極める描写は、農民たちの側に立って、その心の奥まで知り尽くした者でなければ到底描け得ないものであり、こういった画一的な見方は当てはまらないとしている。

実際、ブリューゲルの作品は、驚くほど細かい細部まで丹念に描き込まれ、歴史資料、風俗史資料としても貴重な、多くの視覚情報を含んでいる。『子供の遊戯』などはこの作品に登場する「遊び」の解説だけで1冊の本が出ているほど、興味の尽きない作品であるが、こういった例はブリューゲルの作品には珍しいことではない。ブリューゲルのこれらの技法は、ヒエロニムス・ボスからの影響が濃いとの見方もある。

「股の間から景色を覗いて農村風景のスケッチをとる習慣があり、その姿勢の最中に死んだ」という民間伝承が残されており、阿部謹也は「それこそまさに“逆立ちした世界”を描き、農民との間に生きたブリューゲルにふさわしい最期だ」と評している。

後裔 編集
同名の長男ピーテル・ブリューゲルは地獄の絵を描いたということで「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く作った。二男のヤンは静物画、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されている。ブリューゲル一族は他にも多くの画家を輩出している。もっとも、父ブリューゲルが没した時、長男は5歳、二男は1歳であって、父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではない。

後裔
脚注
参考文献
外部リンク
最終編集: 10 か月前、光舟
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