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目黒雅叙園に「坂本龍馬×100段」を観に行く!

 今日は庭の草むしりと枯れ葉の掃除のシルバーパートの人たちが来てました。
最後のご飯を納豆と漬物と昨日のシジミの赤味噌で食べ終えて、家の中の掃除と洗濯をセットして、駅に買い物に出かけたのです。

 その前に信用組合銀行で通帳の書き入れと少し端数のお金を出しました。隣のりそな銀行と住友銀行に数万円づつ入れました。カードが使えるからです。

 それから千絵ちゃんに戴いた招待券で「坂本龍馬×100段」を観に目黒雅叙園に行きました。

☆私が大学生のときに出入りしていたんですよ。

 そのころはホテルになって無くて、古い由緒ある日本的な建物でした。
学生バイトで結婚式の写真の修正をしていて、雅叙園には式場があるのでできあがったものを納めに行ったのでした。
その受け取りのおじいさんは元華族とかでとても品のいい方で雅叙園の中を案内して下さり、帰りには1階の喫茶ルームでレモンティーを出してくださるのでした。都立大学駅にあるカラーラボでバイトしていたのですが、帰りが遅いと殴られたりもしました。定時制高校へ行っていたとかで、「劣等感の塊になるから見るな!」とか言ってました。奥さんも殴ってました。一緒に働いていた男の人が、私が目を開けて驚いていると「家で可愛がっているんですよ。心配しないでね。」と言ってました。

 写真スタジオでは森ビルのお嬢さんの結婚式の写真を撮ってましたよ。美容師は宮崎定男で、当時は有名なカリスマ美容師でした。

 そのバイトは女子美術の掲示板で見つけたのです。

☆そんな懐かしい雅叙園も今は高層のホテルになり、一部を残して建て替えたのです。
99階の階段や天井の絵や螺鈿のエレベーターの模様などは残したようでした。

ビデオを買いました。

お茶ボトルも!

石川県出身で立身出世の創業者・細川力蔵が、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯[要出典]および岩永省一邸として記録された建造物を入手し、増改築を進めて1931年(昭和6年)に目黒に開業した料亭で、国内最初の総合結婚式場でもあった[1]。(それより以前1928 年(昭和3年)には、東京・芝浦にある細川力蔵の自邸を改築し、芝浦雅叙園という「純日本式料亭」を経営していた。)

なお岩永省一とその家族が住んでいたのは「岩永省一邸」として記録された建造物ではなく、広大な屋敷を持つ別の建物でありこの敷地が目黒雅叙園と接していた(出典『岩永裕吉君』)。

本格的な北京料理や日本料理を供する料亭だったが、メニューに価格を入れるなど当時としては斬新なアイディアで軍人や政治家、華族層以外の一般市民の料亭利用者を増やした。また、中華料理店で一般に見られる円形のターンテーブル(二層構造の円形テーブル上部に料理を載せ回転させることで取りやすくするもの)も1931 年(昭和6年)細川力蔵の考案で[2]、その後に中国大陸へ伝わったものである、という説もある。しかし英語圏などでレイジースーザン(英語:Lazy Susan)と呼ばれるターンテーブル自体は、18世紀のイギリスにすでに存在していたので、細川力蔵の発明や最初の考案と断言はできない。

目黒雅叙園(旧木造館)は太宰治の小説『佳日』にも登場する。絢爛たる装飾を施された園内の様子は<昭和の竜宮城>とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた七つの座敷棟宴会場の内の四つは、2009年3月16日に東京都指定の登録有形文化財(建造物)に登録された。「十畝(じっぽ)の間」、「漁樵(ぎょしょう)の間」、「草丘(そうきゅう)の間」、「静水(せいすい)の間」、「星光(せいこう)の間」、「清方(きよかた)の間」、「頂上(ちょうじょう)の間」、計七つの中から4棟の座敷棟が登録された。映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、樹齢百年の床柱や天井、壁面、ガラス窓にいたるまで贅を凝らし、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した素晴らしい装飾となっている。希望者は申請すれば観覧が可能となっており、イベントや宿泊、食事とのセットで公開されている。2010年1月29日から3月3日までの期間、初めて「百段雛(ひな)まつり」という豪華絢爛な催しが行われた(第一回)。日本全国にある雛文化の中から、非常に贅を尽くしたものが多いといわれる山形の雛を中心に、上記七つの宴会場で飾られることとなり盛況を博した。

1945 年8月15日正午、大西瀧治郎中将は終戦の玉音放送を軍令部の中庭で聞いた後、当時、海軍病院の分室だったこの雅叙園を訪れて同期生の多田海軍次官を見舞った。そして深夜、渋谷区南平台の官舎に帰られ、16日遺書(ウィキクォートに全文があります)を残した上で、特攻作戦の責を取り 14:45割腹自決を遂げた。

1991 年(平成3年)の全面改築は日建設計および鹿島建設によるもので、このリニューアルに際し、園内のエレベーター壁面や室内に使われた螺鈿や漆による装飾は、韓国の漆芸家・全龍福(チョン・ヨンボク)によって新たに制作、もしくは修復された。一階にある化粧室の内装も彼の手による漆工芸によって装飾されている。
目黒雅叙園カフェラウンジを上より望む

昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。

創業者・細川力蔵亡き後は、合資会社雅叙園として同族による経営が成されてきたが、これを受けた運営会社である雅秀エンタープライズが2002年に経営破綻し、外資ファンドにより買収された。現在の株式会社目黒雅叙園として再建の後、2004年ワタベウェディング傘下となる。2007年には経営破綻した福岡山の上ホテル(福岡県福岡市中央区)の再建スポンサーとなり、傘下におさめている。

同一敷地内に全面改築時に建設されたオフィスビルのアルコタワーを有していたが、現在は別資本である。
旧木造部分









案内文のコピー
今回の会場となる「百段階段」は、2009年3月16日に東京都の指定有形文化財に指定された、目黒雅叙園に現存する唯一の木造建築です。江戸文化の贅を受け継ぐ昭和の色彩空間として、今も大切に保存されています。

ケヤキの板材でつくられた99段の階段廊下をもつことから「百段階段」と呼ばれ、階段廊下の南側には7つの部屋が連なっています。各部屋には樹齢100年を超える床柱や、天井や欄間には当時屈指の著名な作家たちによって創り上げられた世界が描かれており、昭和初期における美の競演と大工の高い技術力をみることができます。

本イベントでは部屋ごとにテーマを設け、訪れる方の目を楽しませてくれます。
江戸文化の贅を受け継ぐ「百段階段」の7つの部屋の世界観に合わせ、龍馬にまつわる品々と、龍馬を取り巻く人々とのエピソードを表現。人々を、龍馬が活躍した幕末の世界へといざないます。

☆☆☆☆☆
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6 年11月15日(1836年1 月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。

諱は直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)。龍馬は通称[1]。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある(手紙と変名の項を参照)。

土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、倒幕および明治維新に影響を与えた。戊辰戦争の直前に近江屋事件で暗殺され横死。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降知名度を飛躍的に上げ、幕末の風雲児として国民的人気を得る

龍馬は暗殺された時33歳、おりょうさんは66歳まで生きた。いろいろなものを処分したが龍馬が買ってくれた帯留めだけは処分しなかったという。他家に嫁いだが不遇だったと言う。


龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将お登勢に預けている
龍馬との結婚まで [編集]
お龍 独身時代寓居跡 京都三条木屋町下ル

天保12年(1841年)、医師の楢崎将作と貞(または夏)の長女として京都で生まれた(または実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったとも[2])。妹に次女・光枝、三女・起美(君江)、弟に太一郎、健吉がいる。

楢崎家は元は長州の武士であったが、お龍の曽祖父の代に主君の怒りを受けて浪人になっていた。父の将作は青蓮院宮の侍医で、お龍は裕福な家庭で育ち、生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手だった。だが、勤王家であった父が安政の大獄で捕らえられ、赦免後の文久2 年(1862 年)に病死すると[3]、残された家族はたちまち困窮し家具や衣類を売って生活をするようになった。母が「悪者」に騙されて妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知ったお龍が着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男二人を相手に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ」[4]と啖呵を切って妹を取り返した武勇伝はこの頃のことである[5][6]。

その後、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き[7]、母・貞は方広寺大仏殿近くの天誅組の残党を含めた土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをするようになった。龍馬とお龍は元治元年(1864 年)頃に出会っている[8]。後年のお龍の回顧によると、龍馬と初めて会ったときに名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑っていたという[9]。お龍に惚れた龍馬は母・貞に、お龍を妻にしたいと申し入れ、貞も承知した[9]。

同年6月の池田屋事件の際に大仏でも会津藩の手入れがあって家財道具も没収されてしまう(大仏騒動)。一家は困窮し、龍馬は「日々、食うや食わず、実に哀れな暮しであった」と述べている[5]。これらお龍の境遇について、龍馬は姉・乙女に宛てた慶応元年9月9日付の手紙で詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している[5]。お龍の後年の回想によると同年8月1日に龍馬とお龍は内祝言を挙げた

☆楽しかったですね。
龍馬が持っていたピストルや刀の展示もありましたし、お龍さんの帯留めもあって、龍のデザインなんですね。
それと手紙が多くあって筆マメな方だったんですね。
木曜日までなので、駅に買いものついでに出かけたのでした。

☆☆☆
 それから、眼鏡スプレーが無くなっていたので、眼鏡屋さんのフシミへ行きました。
駅前の立派なビルです。私たちの夫婦の小学校の同級生なのでいろいろお話も弾む。
2歳下の奥様が癌でずいぶん体調が悪いらしい。また、獣医になる試験が結構大変だそうで息子さんが試験中。私の娘もそうだが、そうは思い通りに行かないものが世の中。
眼鏡拭きを2枚くれました。兎の模様が入っていた!

 目黒アトレでおみかんやお野菜を買って、1階でベーグルと生クリーム。シュークリーム2個なども買いました。メトロ線の目黒駅の上でマグロ三昧の寿司を1折買ってきた!
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