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ハロウィーン!内藤ルネさんの死!死者への祈りの月!11月。

 子供たちの笑声が外から聞こえてきます。
 今日はハロウィーンでした。
 街の家に飾ったカボチャや蝙蝠やお化けが楽しい10月31日です。
 10月24日に内藤ルネさんがお亡くなりになったそうです。74歳。
 ゲイであることを隠さず、心優しい正直な方。晩年は7億円もの詐欺で多くの財産をなくされたそうですが世で再び彼の仕事を評価知る機運になり美術館などで作品展の予定がひしめいていたそうです。

 1昨年に弥生美術館に訪れたときにお人柄の良さに驚いてしまいました。バスケットを見ていただきたかったので持っていて撮影にも協力してくださいました。「私も騙されるんです。」「気をつけなさいね。」とおっしゃってくださいました。子供の頃に彼の絵の洋服を着ていたのを覚えてます。可愛いお人形さんや天使に囲まれて天国で幸せでしょうね。

内藤ルネさんと!

 渋谷を歩いていたら見つけたメキシコに現れた聖母の絵のプリントの布地と私のノアの箱舟。
AKIRAさんはこの神様が奇蹟で描いた絵をメキシコで見たそうです。AKIRAさんの本によると明らかに人間の描いた絵だそうです。でも、拡大すると聖母の目には人間の驚いた姿が写っているそうです。私は本当だと思うな!


 11月は死者の月。教会では死者のための祈りを求められてます。
 クレアゆうこさんが私のプチ・スタジオで撮ってくれた写真です。2006年9月7日。スキャンの仕方が悪かったのでカットしてないのですが。11月27日に帰天されたのでした。
ゆうこさんの写真特有の光が写ってます。カメラで撮影した映像を見せてくれて、「ほら、どこにも光の出所もないのに写っているでしょ。」と語ってくれたのでした。
ゆうこさんの縁で写真家のKAZESANや詩人のかぜのあやさんや風舞なんや、ドイツの美智世さんともご縁ができたのでした。死者の思いを地上で実現するのは私達の仕事ですよね。


最近、読んだ本です。

若くして死んだ絵描きさんです。
名前も存知あげなかったのですが、読んでて深い悲しみと人間の怖さか感じました。
水上勉さんの息子の無言館を経営してられる窪島誠一郎さんの本で実在していた野田英夫さんの生涯を書かれてます。
 1908年にアメリカのカルファニアで生まれた画家です。
 当時に日本では移民に憧れ夢を持って渡米してずいぶん苦労された人が多いようです。
 1911年に日本でいい教育を受けさせるために熊本で裕福な暮らしをしている親戚に預けられる。15年後、中学卒業後渡米する。叔父の連れ合いの父の伯爵のすすめで有数の進学校に学ぶ。才能豊かな明るい正直な好青年だったようだ。仏教への関心を持つ。貧しい人や差別を受けてる人に勇気や希望を与える絵描きになりたいと決意する。
 カルファにア・ファイン・アーツで学ぶ。
 リベラ(フリーダ)の壁画を感動し東海岸で勉強したいと決意。
 1931年、ニューヨークに出る。(ウッドストックの芸術村で国吉康雄、ユージン・スパイカーらと会う。「少女肖像」受賞。
 1932年、ユダヤ系のアメリカ女性と結婚。アメリカ画壇への進出の一歩。帰米二世にとってはアメリカ国籍の女性との結婚はまれな結婚。戦前は白人と有色人種の結婚を認めない州はザラだった。1929年からの恐慌で都会の惨状を見る。
 1933年、リベラの国連の壁画の仕事を手伝う。(取り壊される)
 1934年、政府から2500ドルの制作費でニューヨークのシビックセンターのフレスコ壁画「移民」を描く。
 「われわれも人間だ。画廊も閉鎖され作品は売れない。このままでは芸術そのものが滅びていく。」と政府に叫び人種差別、思想と表現の自由の原則を認めさせW・P・Aを創る。
 日本、帰国。
 1935年、「帰路」「移転する人」を描く。
 銀座青樹社画廊で個展。評判よいが画壇にとけあえず。旧態然とした機構や建前主義にうんざりする。父母は1932年に27年間のアメリカ生活に見切りをつけ帰国。
 1937年、アメリカに帰国。「ザ・アート」「クリエイティブ・アート」などの美術雑誌に記載される。
「政治や社会への批判は、一握りの知識人や学者たちによってなされるものでなく、いつも底辺の生活とともにあるもの言わぬ労働者とともに育っていくものと思う。」とルイスに言う。
日本の美術雑誌へ寄稿する。
 カルファニアで日本へ行きたいという野田のためにハイスクールの壁画を200ドルで依頼される。ヨーロッパを経て日本へ帰国。

 アメリカ共産党と深く関わる。FBIに監視される。ヨーロッパの旅はアメリカ共産党の資金輸送であった。チェンバースに「絵の道に戻れ。」と忠告される。絵の情熱薄れるほどのめりこむ。1936年、ニューヨークに戻る。
 1937年、日本に帰国。新制作に作品を出し会員として迎えられる。
 1938年、日動画廊で個展。ルースがアメリカから来日。田園調布の猪熊弦一郎の留守宅を借りる。手伝いによると破格に贅沢な食卓だったという。
 1939年、1月野尻湖で脳腫瘍で死去。英夫、忙殺説出る。反戦運動でマークされる。
 32歳だった。目の見えない状態で「野尻の花」の油絵が絶筆。透明な美しい絵だ。
両親は3人の子を早く失い、アメリカに行ったことを悔いていたようだ.
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